パネルディスカッション

 

中澤● ありがとうございました。医学書院から発売されている『訪問看護と介護』という本があります。ここに中野さんの記事と、今日ここにいらっしゃっている佐々木淳さんの記事が入っています。よかったら、お買い求めください。時間がかなり押してきましたが、これからの時間はモデレートを三原さんにお願いし、パネルディスカッションから会場とのやり取りに入ります。

 

三原● 予定どおりオーバーしていますね(笑)。打ち合わせをしていないので、どう進めるかと考えていたのですが。ちょっと中身を若干復習すると、私は介護保険の原理原則を振り返りながら、17年間の振り返りを少しして、財政が厳しくなったという話をしました。浅川さんは、政府がやっている自立支援介護については、さまざまな動きがあるということをご紹介くださり、鐵さんは、和光市を中心に、こういうことが和光で起きているのだということをお話しいただきました。中野さんは、ご自身の臨床経験を中心に自立とは何かということを話された。あとは島村さんが髙木さんの代理という形で、髙木さんの経験から、自立支援とは何かということ考えたということですね。

 

議論を見ていると、「自立支援」という言葉の定義が、いま言われているものとどうも違うような気がするのですね。例えば鐵さんが紹介してくれた熊谷さんの言葉でしたか、「自立とは依存先を増やすこと」とある。髙木さんは、「自立支援とは、本人の人生の選択肢を広げることである」と、ほぼ同じことをいっています。メッセージをいただいた武久さんは「その人が自分らしく自分の人生を送るためのものである」と言っています。

 

どうも政府の言っている「自立支援」というのは、我々が今日、議論した自立支援と違うような気がする。和光で実際にケアをやられている鐵さんはどうお考えですか。

 

鐵● 和光市の直接のケアではないのですが、普通の介護保険の支援をしていると聞かないような言葉を、いろいろなところから聞いたりするんですね。ケアマネージャーが「和光市ではこうなのです」という言い方をしてくる。つまり、ケアマネージャー本人が、その人の支援をどうしていこうか、一緒にどうやって考えていこうかといったケアマネジメントの対人援助の原則がなく、行政のほうを見てしまっている。そこがとても違うというか、すごい違和感のあるところなのかなと感じていますね。

 

三原● そこでいわれている自立というのが、今日のテーマにつながるのですが、誰のめ、何のための自立なのですか。

 

● 誰のためでしょうね。その人の向こう側を見ているので、誰を見ているのかというと行政ですよね。行政の望む自立を目指すということになっているのではないかなと思います。

 

三原● そうすると、あえて突っ込みますが、行政の望む自立とは何なのでしょう。僕は和光市を糾弾するわけではない。ただ、和光市が考えていることの哲学というのは何なのか、もう少し深掘りしたいと思うのですよね。浅川さんもいろいろなことを言っていた。我々もいろいろ言うタイプですが、和光市を悪者にするのが目的ではありません。なので、和光市の考える自立というのは何のための自立なのかを、もう少し深掘りしたいのですよ。

 

● 決して悪意があって、介護保険を卒業させたいというのではないと思うのです。介護予防のメニューに、介護保険がなくても生活ができるような、いろいろな体操教室とか、訪問事業とか、栄養士さんが町に相談室をつくって、そこを和光市もバックアップして、地域の高齢者に来てもらうというようなものを盛り込んでいる。当初は介護保険を卒業させるという目的ではなくて、地域の高齢者が元気で過ごしてもらうためにというところだったと思うのですね。そこは恐らく、今も変わらないのだと思うのですが、どこかのタイミングで、介護保険の認定率を下げることが目的化してきてしまっているのではないかと、それが見ていて感じるところですね。

 

三原● 浅川さん、いかがですか。

 

浅川● 私のレジュメの右下に、A−8と書いてあるのですけれども・・・レジュメはそれぞれの登壇者の名前をアルファベットにしています。介護保険法では第1条、2条、3条、とも、すべて「自立支援」という言葉が入っています。それは介護保険ができる前に「自立支援システム研究会」というのをやって、寝たきり老人を起こそうとか、とにかく体をちゃんと動かそうというところを目的にした「仕組み」をつくったので、介護保険というのはそれを法律にしたに過ぎないと思うんですね。

 

仕組みの法律ですから、気持ちとしては「自立支援で皆さん、スタッフの人は努力しましょう」というのは、それはそれでいいんですが、そこだけにとどまっていたら、人間の生活というのがなくなってしまう。人間の生活というのは、自分で自分のことは全部やるという「自己決定権」が第一で、3番目の「日々の生活を大事にして、社会と関わる」ということがあって、初めて人間の生活というのは成り立つわけでしょう。

 

先ほどの鐵さんの話の中でも出てきたように、2番目だけを考えてライフスタイルとか好みというものが反映されない形でケアが行われては、本人にとっては「それだけではないだろ」だよね。本来は、1と3を含めた上で、自立支援はなされるべきなのではないか。あまりにも第1条、2条、3条の自立支援という言葉がひとり歩きし過ぎているというように、私は感じています。

 

三原● どの方向にひとり歩きしているのですか。

 

浅川● 最終的にはADLをより向上させて、介護保険を、4の人は3に、3の人は2に、要支援で、うまくいけば卒業できるというプロセスをうまく誘導するのが介護保険の目的だというように、W市はどうも市をあげて進んでいるような気がします。

 

三原● そうすると、私が最初に指摘したとおり、介護保険財政が厳しくなってきているので、給付を削らなければいけない。給付を削る中で、要介護者を減らせば給付が削れる。だから財政的なインパクトを考えて要介護度を下げることが目的の自立支援だと理解されている・・・と。

 

浅川● そう、鐵さんが言われたように、初めはそういう思いではなかったのだけれども、結果的に要支援の認定率が全国の半分も下がったというので、これはものすごいことだということが、その後の「卒業」という言葉と結びついて、それが表に相当出てしまったのではないかと。

 

もちろん、現場できめ細かいケアをやっているのは承知しているので、それを否定するつもりはないのです。ただ、それを外から受け取った自治体や国、とくに財務省などは、要介護認定率が下がったことは喜びなのですね。つまり、総費用がどんどん減っていくわけですから。

 

そういうことで持ち上げられてしまったということが、現在起きていることなのではないかと。これをきっかけに、今度は要介護度が軽くなったけれども、軽くなったことを誰もほめてくれないし、それに見合うペイが入ってこない。努力したのにお金が入らないのはおかしいではないかと、現場の特養やデイの人たちが言い出した。それを自治体がくみ上げて、要介護度が軽くなったところは、すばらしい介護をやっているから報奨金を出しましょうとなったとうふうに、すべてがお金に結びついているのですね。

 

しかし、考えてみれば要介護度が軽くなったということは、スタッフの労働負担が少なくなったわけだから、その分そのスタッフは別の仕事、あるいは別の人の介助もできるわけになったので、決して要介護度が軽くなったからすぐに報奨金に結びつくという発想はやはりおかしいのではないかなと私は思います。

 

三原● 中野さんは、その臨床現場で、いろいろな複雑な事象を見るわけですけれども、例えば、この人はちょっとリハビリを頑張れば、ある程度日常生活が戻れるというのはあると思うのです、それは要介護度関係なく。実際、高木さんもリハビリをやられて、ある程度、戻ってきた面もあるわけですよね。

 

だから、リハビリをやることが悪いわけではもちろんないわけですよね。そうすると、では、自立支援型介護でしたか、自立支援型ケアマネジメントの何が問題なのですかね。

 

中野● 方法論としてこういうものは当然ありますし、特定のやり方で効果がある人たちも、もちろん一部はいると思うのですね。この話を伺ったときにいつも思い出すのは、いわゆる自立支援介護のひとつ前の世代の、特定高齢者に対する施策。いわゆる二次予防の事業の中で、まず特定高齢者の特定に介護予防の予算の3分の1ぐらい使われているのです。さらに、その介護予防事業を、特別な場所で、特別な人が、特別な方法でいわゆるリハビリテーションをやるような、ライザップみたいなやり方ですけれども、そういうやり方でやって、改善した人たちが国の資料に載っているわけですが、そういう方々は、本当の対象の方々の、実際は0.8%しかいなかったわけです。

 

この話というのは、非効率ではないかという話ももちろんあるのですけれども、むしろ我々の臨床の立場からすれば、健全だと実は思っています。逆に言うと、なぜ施設に入っている方々ばかりあんなに頑張ってしまうのか。たぶん、泣きながら頑張っているのだと思うのですよ。だって、そこから出たら自分たちは生きていけないから。

 

先ほどの浅川さんの資料にもありましたように、例えば北欧ではいわゆるケアと施設の分離というのが非常にいわれています。それは分離していないと、そこにいるためにやらざるを得ないような、受けなければいけないようなケアがたくさんあるので、それはやはり自己決定の原則に反するのではないかという歴史があるわけです。

 

自立とか自立支援の考え方というのは、1951年のWHOの「健康とは」みたいな定義から始まって、1960年代の青い芝の会や、movement of independent living、いわゆるIL運動など、本当に実践と闘いの歴史なわけですね。

 

そういった中で、現場が勝ち取ってきたものなのですけれども、今回やられているのはちょっとちがう。国は医療費が少ないほうがいいわけですから。だから、これをちゃんと議論しなければいけないのだと思います。

 

まとめますと、自立支援及び自立というのは時代によってかなり違っていて、多様な議論があって、経験とか実践の中でやはりこれはいけない、ということを学んできた歴史があるのです。それは常に学ばなければいけないのですが、今回の自立支援介護のいちばんまずいのは、そういうこととまったく関係なくやっているということです。

自立支援型介護を推奨しているいわゆる未来投資会議は、不連続な政策だとおっしゃっているので、本当にそのとおりだなと思っています。そういったところが問題なのかなと思います。

 

三原● 不連続というのは、中野さんの議論を少し踏まえると、介護保険というのはいろいろな反省のもとにできあがっているわけですよね。いろいろ問題があるにせよ、介護保険はよくできた仕組みだと私は思っているのですが、財政が厳しくなってくる中で、財政の論理が先走って、給付を使わせないための「自立支援型介護」がいろいろな形で議論されているというのがマクロの姿ということですよね。

 

その結果、本来、介護保険ないしはデンマークの高齢者原則のような、イメージされていた自立支援とは違う自立支援の形で理解されていると。浅川さん、そういう理解でいいですよね。

 

浅川● 財政の問題は非常に大きいですね。社会保障全体の伸びを抑えていかなければいけない。それを何とかうまく納得のいく形で国民に理解させるには、自立支援型介護を出せばに誰も逆らえないだろうということで、これを前面に押し立てて費用を少なくするというのは、なかなか巧みなトリックであることは間違いない。ただ、財源の問題だけに自立支援型介護を特化させるのはおかしいのではないかなと思います。

 

三原● 鐵さんの話で、行政主導のケアマネジメントという言葉があったのですけれども、それは今までのケアマネジメントと何が違うのか。たぶんこれも自立支援型介護の問題点の1つだと思います。鐵さん、行政主導のケアマネジメントと、今までのケアマネジメントと何が違うのか、何が問題なのですか。

 

● まず、ケアマネジメントの考え方は、資料によっていろいろ違うのですが、もともとの言葉を調べたところだと、アメリカで精神障害者の支援で使われ始めたようなんですね。それがイギリスなどで使われ、日本でも介護保険が始まるときに「ケアマネジメント」という言葉が使われた。

 

当初は専門職主体で自立支援・ケアマネジメント・介護の計画を立てるというところでやってきたのですけれども、それはなかなかうまくいかなかった。これは障害のある方の歴史や、いろいろな先人の取り組みを見てもわかるのですが、専門職主導ではやはりうまくいかなかった。そうではなくて本人の生活を主体に考えていかなければいけない、と考えられるようになったわけです。

 

例えば医学モデルという考え方から生活モデルという考え方が出てきたように、本人の努力だけではどうすることもできないところがある。そこをいろいろな環境、周りの支援を含めて支えていこうと、生活モデルの考え方をもとにしたようなものが、今のケアマネージャー、ほかの職種も使っているであろうケアマネジメントの意味だと思うのですね。

 

ですから、本人をベースにした支援というのが、ケアマネジメントの原則かなと思っています。それに対して、「行政主導の」というのはそのままの意味で、行政がこうであってほしいと、その人に対して課題を設定していくわけですね。1対1の対人援助の中ではなくて、行政主導でやる。わかりやすいのが和光市の地域ケア会議の場です。市役所、地域包括支援センター、管理栄養士、歯科衛生士、薬剤師、PTなど、いろいろな職種がケースを話し合っていく。

 

ひとつのケースで、和光市方式で使われているのは、20分ぐらいです。そこで支援の方式を決定してしまうというところが、大きな違いですね。限られた時間の中で、限られた項目をもとにケアの方針を決めている。私個人としては、行政主導のケアマネジメントはそういうものなのかなと感じています。

 

三原● 私も、和光市の市長の話と担当の話を2回ほど聞いたことがあるのですが、いちばん違和感があったのが、本人不在のケアプランを議論することでした。ケアプランは本来、サービス責任者会議という形で、本人ないしは家族が入ってケアプランを議論するわけです。なぜ、そうしないのかと思いました。そのときの答えは、個別のケアプランは議論しませんということでした。

 

それは具体的には個別課題を抽出して、たとえば浅川さんのケアプランと、鐵さんのケアプランと、私のケアプランを共通させて、地域の課題をそこで抽出して、ネットワークを構築しながら、地域の課題を発見して、課題解決するんだと。そのときに市民とか事業者だけでそれができないものであれば、行政がやっていく、だから政策提言だというのです。そういう話だったのですけれども、知らないうちに、なぜか本人不在のケアプランの議論になっているということに、私は非常に違和感を持ちました。 

 

ちょっと私がしゃべらせていただきます。『介護保険制度史』という介護保険をつくった人たちの本が出ましたが、これを読んであっと思った部分がありました。制度をつくるときに、いちばん争点になったのは、要介護認定でどこまでケアの必要性を判断し、ケアの中身を決めるかというところだったそうです。しかし、行政が要介護認定の段階でケアの中身まで決めてしまったら、措置と一緒になってしまう。だから、要介護認定とケアマネジメントを分けたわけです。

 

要介護認定は、ケアの必要度でしか判断せず、ケアマネジメントで細かく内容を決めていく。そしてケアマネジメントは給付にするという話だったのです。まさにそこですよね。行政主導では措置になってしまう。要介護認定の段階あるいはケアマネジメントの段階で、行政があまりにもケアプランの中身をいうということは、どんどん措置と同じになっていくということですよね。

 

措置が100%悪いわけではないわけではないですけれども、介護保険の趣旨からすると、反すると思います。その辺に私は違和感を感じるところではあります。

 

(会場からの発言に続く)